上海の魯迅紀念館

画像提供:   斉藤 隆夫 氏     2021.05

仙台の斉藤さんからの投稿です。
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上海の魯迅紀念館(魯迅と仙台)

 1904 年、魯迅は仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学、無試験かつ学費免除でした。当時、医学校では講義用の幻灯機(スライドプロジェクター)で日露戦争に関する時事的幻灯画を見せていました。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択したそうです。
 幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されており、そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があったそうです。後にはじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いています。
 「あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとえ体格が良く、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとえ多かろうと、そんなことは不幸とまでは言えぬ。むしろ我々の最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)」
 魯迅が幻灯を見た建物「仙台医専六号教室」は、1904年に建設され、移築された後、2021年現在実在しています。「魯迅の階段教室」には魯迅と藤野先生の写真が掲げられています。魯迅は「中央のブロック、前から3列目の真ん中あたりにいつも座っていた」とされ、1998年江沢民が来日した折彼も着席しています。正直言って粗末な作りで隙間風が入り冬は寒かったのではないかと思います。
http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi6/mm6-4.htm
 東北大学構内には東北大学資料館があり、魯迅記念展示室があります。
 東北大片平地区の俯瞰写真、ここがかつて医科学校があった場所です。

 当時の解剖学教授藤野厳九郎氏に添削された解剖学ノートが現存しており,復刻版を見る機会がありましたが極めて精密に板書を書きとどめており,この師弟関係は小説「藤野先生」に詳しく述べられています。東北大出版会で出されている書籍にも魯迅の解剖学ノートが掲載されていますがこの魯迅のノートについて評価を述べておられるのが秋田高校の先輩の苅田敬史郎先生です。
 「藤野先生と魯迅-惜別百年―」 の表題です。
https://www.tups.jp/book/search.php
 前置きが長くなりましたが上海の魯迅紀念館(中国では記ではなく紀です)を訪ねる機会がありました。
 この日は丁度1月1日,元旦であったにもかかわらず開館しており、紀念館に行く途中では多くの人々が太極拳をゆったりとした動きで、まるで日本のラジオ体操のように楽しんでいました。驚かされたのは世界の文豪シェークスピア等の銅像が何体も設置されていたことです。中国人独特の感性であると共に魯迅が彼らと比しても決して引けを取らないとの自負の表れではないかと思います。
 野外にかなりデフォルメされた魯迅の銅像と室内にはより写実的な魯迅の銅像がおかれています。
 多分身を乗り出して聞き入る弟子達に囲まれた魯迅の蝋人形がおかれておりましたがかなりリアルでした。タバコは離さなかった様です。
 また当時上海に店を構えていた魯迅と深い関わりを持った内山書店の玄関も再現されていました。
 館内はまるでホテルのロビーのように床は大理石が敷き詰められており、魯迅の中国での評価が高いことがうかがえました。
 これはかつて毛沢東が「魯迅の中国における価値は、わたしの考えでは、中国の第一等の聖人とみなされなければならない」と講演した。民国期の言論界で、欧米・日本の帝国主義国に対し抵抗しつつ、その近代文化を主体的に受容しようとした点、および左翼文壇の旗手としての国民党批判者としての「戦歴」により、魯迅は中国革命の聖人へと祭り上げられたことによると思われます。

 見学していると高校生くらいの女子が私に歩み寄り多分課外授業の一環でしょうがアンケートに答えてくれと中国語で頼まれました。もちろん中国語は読めませんのでにわか覚えの中国語と英語で「私は日本人です。ごめんなさい」と答えたところ怪訝そうな顔をされそそくさと私から離れて行きました。
 これくらいの年齢でも少しは反日感情があるのではないかと感じました。
 魯迅は肺に疾患を抱えていたようですが正確な死因は不明です。
 デスマスクが展示されていましたがかなり年老いた風貌ですが55才で亡くなっています。かなりの愛煙家であったらしく、常にたばこをくゆらせていたようです。
 展示されている写真の中に仙台の写真があり,当時ただ一人の中国人の留学生であったとのキャプションがついておりました。在仙中は話し相手が少なく孤独にさいなまれたのではないだろうか等とふと思いました。
 時代は変わり,現代では仙台にも中国はもとよりインド、東南アジア,中南米などからの留学生が多く見られるようになりました,中には妻子を伴って留学される方もいらっしゃいます。
 その日の午後に上海より空路で帰国しましたが2時間かからないで日本に戻ることが出来,魯迅時代は一体船旅で何日かかったのだろうかとふと思いつつも、日本に着陸間際になり、窓からくっきりと富士山が見えたことが今でも鮮やかに印象に残っています。
        ※一部Wikipediaより引用させていただきました。





































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